東京藝術大学入試情報サイト > 諏訪部 佐代子

ここは何かを教えてくれる場所ではありません。

私は大層な天邪鬼でしたので、それはそれは苦労しました(主に周りが)。
その集団にいない「個性」を見つけるのが得意で、それが私のアイデンティティでした。自分を是と言い切るのをひどく怖がる人間でした。
そんな偏屈な私が藝大に入ったのには、胸を張って言える理由一つ、そうじゃない理由一つがあります。前者は、論評を書く人間になりたかったがため。絵画と論評が両立できる人間になりたいという理由です。その通過点として、藝大の油画は最適だと思いました。もう一つ、恐らくこちらの方が最終的に私を突き動かした理由。それは、世の中に絵で人を判断する試験があると耳に挟み、言いようもない嫉妬心にかられたことです。いわゆるヤキモチです。絵だけは、他のどれは人に負けても譲りたくありませんでした。今思うとちょっと気恥ずかしい理由です。しかし志望理由を書けと言われたので素直に書きます。
大学に入ったとき、私はまっさらでした。油絵は、10年以上描いてきました。しかし、絵は自分がわかると思った瞬間にわからなくなります。入試で、さらにわからなくなりました。
その時読んでいた評論、鈴木孝夫の「相手依存の自己規定」に、「個人」は「立場」でしかない、という言葉があり、私はかなりその言葉に支配されるようになりました。
「立場」によって我々は振る舞わされているというのです。
私は自我が立場でしかない、という考え方に疑問を持ちながらも、立場が個人を強くするという考え方には実感を覚えました。安易に自分の立場を決めてそこへ向かって行くことは実際自分を強くするのかもしれないと頭のどこかでは思う一方で、それに抗うように、「収束を規定しない」ドローイングを続けてきたのが事実です。
一年生の半ば、自分を是だと、自分のアイデンティティはこの絵だと言い切れる同期の人間が怖く、私はひたすら絵に没頭し、言葉からどんどん離れてゆきました。そんな時、「諏訪部は芯を作ったほうがいい」と同期に言われ、苦しんだことがありました。それを、学年末の展示の際に先生に見抜かれ、「自分がやってることはとにかく全部自分の制作であるし、変えようと思って変えられるわけではない、見つけようと思って見つけられるわけじゃない。何をやったって自分の芯からずれてる行為ってわけじゃない。」と言われ、視野の狭さに気づいたことがありました。油画の先生は先生である以前に作家なので、制作者としての思いもよらない言葉をぶつけてくれます。学年が上がってから、自分を是だと規定してそこに向かうことにあまり意味を感じなくなり、自由な制作ができるようになりました。これは私の経験であり、人の数だけ素晴らしい経験があると思います。様々なバックグラウンドを持った人たち同士による沢山の化学反応が毎日起きています。
今、私は自分を規定するものが何であるか、というところに興味をもって制作を続けています。それは、私を育てた日本という国に依存しているのかもしれないし、はたまた他の何か些細なものかもしれません。

冒頭の言葉を繰り返しますが、藝大は決して何かを手取り足取り教えてくれるような場所ではありません。しかし、学ぼうとする人間に真摯に向き合ってくれる大学です。
なぜ作っているのか、それを自らに問い続けることができるのが、この場所です。
これからももっと自分を揺すぶって、思いもよらない未来にたどり着くのだと思います。