東京藝術大学入試情報サイト > 渡部 雅人

幼少期、多分に漏れず頭を強く打ったボクは、物心つく頃にはスーパーの広告チラシの裏に絵を描き、物語を空想しては、マンガにしたり、歌にしたり、演じたり踊ったりしていた。
それから20年余り。下っ腹は突出し、生え際は後退、走ればすぐに息切れ、立っているだけで足腰を痛める現在も、その幼少性だけはそのままに、実際に有った話、未だ無い話、そして未来永劫訪れないであろう話をないまぜに、物語を書いたり、呟いたりなどしている。

東京藝大には学部卒業から2年の浪人生活(そして紆余曲折)を経て、やっとの想いで入ることができた。当初の志望動機は、学歴ロンダリングやモラトリアムの延長だったりしたが、浪人中に脚本領域の教授が今の坂元裕二氏に代わってからは一転、そういった打算はすぐに頭から消えた。純粋に、いま自分が一番教えを請いたい脚本家に、教えを請いたい。その想いが、再三の受験にボクを向かわせた。

入学してからは、とにかく忙しい。さっそく制作実習に向けての脚本執筆。初稿が出来てからは、監督やプロデューサーと打ち合わせし、何度も何度も直していく。そのほか、脚本のコンクールやコンペティション、学外の自主制作に向けての企画と執筆。そして直し。
正直、この一年はその繰り返しに忙殺された。合間に実習の助監督に繰り出したり、国際合同ワークショップで韓国やフランスの学生たちと交流したり、イランの映画祭に参加したりなど、過密なスケジュールでアルバイトをする隙もなかった。

卒業後の進路は、と問われると、胸を張って回答できる明確な道筋はまだない。なにせ、藝大に入ったのは退路を断つためでもあったのだから。マーフィーの法則じゃないが、僕が僕として生まれた以上、幼少期に頭を打ったのは必然だったし、どこかで道を外れて映画の道に来たのも、藝大に入って教授たちや仲間たちと出逢えたのも必然だったと思う。だからこそ、後悔も反省も疑念も、今はもうない。ただ眼の前にあるのは、次の〆切の期日だけだ。